長石はいらない
|
もちろん爺作の井戸茶碗とて、焼きすぎればカイラギグラデーションは薄くなったり消えてしまうでしょう。焼物は基より胎土と釉薬のマッチングする焼き方や温度で焼かれる訳ですから、わざわざ焼きすぎさせる必要はありませんし、伝統的な焼物の世界においては「表情さえ良ければ」と生焼けが許されるはずもありません。カイラギは焼成結果の善し悪しを別にして必然で生じなければならないと爺は考えました。爺の釉薬とて魅力的なカイラギを生み出すための諸条件はあります。且つ、さらなる探求も必要と認めます。しかし一般に言われるように、重ね焼きして「蒸れた」ためとかと、偶然によって生じたと結論づけてしまうのはいかがなものか。蒸れて出来るのだったら、現代の焼物にもたくさん井戸のごときカイラギが生じていなくてはおかしい話しです。社会常識や一般知識によってボーダーを決めずに、可能な実験をあきらめず行わなくて、どうして窯の神様が微笑む事があるでしょうか。いや、窯の神様は「焼成結果」という厳然たる「事実」を提示してくださって、窯を焚く度に宝物を授けてくださっているとも考えられます。情熱がなくては自分を支えられないけれど、焼成結果は自然の摂理です。結果がすべてです。熱き思いで結果を読み解いて再び立ち上がるだけです。 |
|
爺とて最初、井戸は土分の多い長石釉と思い込み、色々な長石を取り寄せては実験を繰り返しました。しかしカイラギは生まれてきません。釉薬は縮れますが果たしてそれをカイラギとは呼べません。みな志野の柚子肌です。井戸のカイラギは基本的に柚子肌とは違って見えます。志野のようにまったりとした縮れではなく、もう少し透明感ある釉ガラスです。それに一粒一粒の切れ方、離れ方が違います。解決策が見つからない爺が「井戸はカイラギのグラデーションだ」と気付いたとき、長石を捨てる決意が湧いてきました。 |
|
そもそも井戸に長石が使われていたかいないかも判っていないのです。それなのに疑わず便利さゆえに長石をまず選択してしまう。日本では桃山時代・志野焼に使われたのを始めとすると焼物史は長石を語っています。それ以前の釉薬は灰に土石ということだそうですが。中国では?朝鮮半島では?爺は知りません。 |
|
もう20年以上前なので確かな記憶ではないのですが、日本で本格的な施釉陶器を焼いた猿投窯の釉分析を元にして、その灰釉レシピを作った事があります。土灰55%、珪石25%、共土20%くらいの簡単配合で酸化焼成では黄色い猿投風、還元焼成では古瀬戸風になりました。時代的に陶工がまだ便利な長石を知らないと仮定して長石を含まないレシピです。簡単で表情もいいので、ずいぶんと焼きましたが、疑問が浮かんできました。きれいに焼けるし融け流れもします。しかし本歌の古瀬戸とはいささか違うのです。言いようがないのですが、古瀬戸の釉ガラスは何かもっとさらりと融けている、貫入も小さく品が良いのです。時代の絵具のせいと割り切ることは出来ます。800年の時間差なのですから。その時の爺は疑問だけでした。疑問に向かえる知恵も知識もありませんでした。こうして井戸に挑戦してきた経験から、このごろ爺は釉薬の根本的考え方が何もかも違うのではないかと思い始めました。 |
|
そうなんです。古陶の多くは釉肌のさらに上へ何か薄いフィルムを被せてあるかのような釉調をしています。それでいて釉ガラスは薄いのです。現代陶器にあの釉調を見いだす事は稀でしょう。現代陶器の方が色彩も表情も豊富なのに、その質感が画一的と感じてしまうのは爺だけでしょうか。古陶すべてが良いと言っているのでは無いのです。そうではなくて現代陶器の質感の画一性は使用する材料の画一からやってくるのではないかと、爺は考えます。逆に爺が好む古作の肌を表す材料も、時代と風土なりの画一性を持っていると考えた方が自然です。故に古作再現を試みるには材料からの見直しが必要になります。古作の材料が手に入らないからと、代替え材料を使って焼成後の科学分析結果が同じだから再現合格というわけにはいきません。そもそも最初から代替え材料しか使えないのです。それでいて少しでも近づいた釉調を表現せねばなりません。 |
|
で、井戸には長石を捨てました。(ただそのことが面白かったので、近頃は長石を使わない釉薬を追いかけています。) |
|
あらすじは、この辺でひとまず区切ります。次からは順不動でもっと具体的に述べられたらうれしいです。(2010/11/18) |