写真は魔物
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今となってはありがたい話しです。何年か前、さる高名な茶道研究家からおしかりを賜ったことがあります。曰く「写真は魔物」と。本物を知らずして井戸茶碗の再現など出来ない。写真(印刷物)から読みとれるものではないと。この至極あたりまえの話しがどれほど多くの焼物研究者を苦しめていることか。虫眼鏡で写真を覗く爺には痛烈なひと言でした。いかんともしがたい現実に悩む爺に最大の幸運がやって来るとは、一番の驚愕者が爺でした。爺は本歌の本歌の本歌の(何度「本歌の」が付いても付きたりない)井戸茶碗との対面を果たしたことがあります。この幸運で得たことは「本物は本物」。たしかに写真はイリュージョンでした。この機会を与えてくださったあの方(前述の茶道研究家ではありません)への恩返しは、その方から授かった「あなたはあなたの井戸茶碗、以織井戸を焼きなさい」を全うすることです。(以織は爺の名)まだ恩返しが出来ていない爺ですが。 |
| とはいえ、写真には写真の力があります。魔物には魔物の欠点も長所もあります。写真の魔力を最大限利用していきましょう。そこで問題です。「下のふたつの茶碗のうち、一碗には井戸の釉薬が掛かっています。それはどちらの碗ですか?もう一碗には何が掛かっているのでしょうか?」 |
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| 上の二碗とも「生掛け」で施釉しています。爺の釉掛けは「生掛け」がスタンダードです。素焼きをしてからの施釉より「生掛け」の方が活きがいいでしょう。素地土と釉薬との反応性も上がるし、なにより危険がいっぱいだから焼き上がりの表情が豊かになります。素焼きをして安全でも魅力に欠ける釉調を望むか、リスクが増えても魅力的な「生掛け」を選ぶかは結論が出てしまっています。順序が逆でしたね、「生掛け」とは素地土を素焼きしないで(文字通り生のまま)釉薬を掛けることをいいます。とはいえ爺は「生掛け」信奉者ではありません。ほとんど「生掛け」の焼物しか焼いてきませんでしたが、「生掛け」を選ぶか「素焼後の施釉」を選ぶかは実は爺が選べる話しではありません。材料と材料が選ぶことです。材料の相性いかんの結果なのです。焼物は必然の積み重ねです。我々の仕事の多くの時間は、それぞれの材料の相性を発見することです。先に「生掛け」があったり「素焼き」があってはおかしいのです。ごめんなさい。説教臭くなりました。ともかく爺の井戸は「生掛け」です。 |
| ずいぶん寄り道をしてしまいました。上の二碗の答えです。そうです正解です、右側が井戸釉を施釉したものです。カイラギの種がもう出来ているのがおわかりでしょう。それでは左の碗に掛けているものは、長石?それとも他の釉薬でしょうか?答えは「土」です。カオリン系の白土です。井戸釉ほど縮れていませんが、カイラギと似たような表情を見せています。カオリンにも産地によってたくさんの種類がありますから、すべてこの結果になるかはわかりません。以前、蛙目土でも同じような結果を記憶しているので暇な方は試してみてください。濃い目の泥漿にして掛けます。 |
| 回りくどいことをさせていただきました。理由はふたつあります。ひとつ目は表題の「写真の魔力」です。写真に余分な加工を施さないことが条件ですが、上のふたつの碗の材質を写真から判断出来る方は稀でしょう。しかし二碗とも縮れた表面を持つことはわかります。こちらは「写真の力」です。騙すけれど真実も伝えるのが写真ではないでしょうか。 |
| ふたつ目は井戸の釉薬の出発点、それもほとんどの井戸研究者が左の写真の事実からスタートするのではないかという想像です。ごたぶんにもれず爺もそうでした。自力で焼物をしている人なら泥漿を素地に掛ければ縮れることなど経験済みと思うのです。そして土分の多い長石釉を仕立てれば井戸釉になるのではないかと、迷路に踏み込んでいくのです。<2010/10/1> |
| 追記;出光美術館には陶片のコレクションがあって研究者にとって実のある展示がされています。残念なことに井戸茶碗の陶片はありません。そもそも数の少ない井戸茶碗のそれを望むことが無理なのでしょうが。手触感のある展示が望まれます。 |
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