井戸茶碗の謎解き なぜ磁州窯なのか1 野口以織 以織窯

ナゾ目次>

なぜ磁州窯なのか1

〈これも井戸釉薬の話しです

人との出会いは不思議なものです。爺は彼女(磁州窯研究者)に会うまで磁州窯手に何の興味もありませんでした。かって書物で知ってはいたけれど、その時、名称も思い出せないほど無関係な存在でした。以織窯(爺の窯名)陶工のもうひとり・小宮加津子(以下・姉婆)があそこあの時(五島美術館、平成22年8月)磁州窯手の梅瓶に引きずられなければ、彼女との出会いも磁州窯手の研究も縁がありませんでした。(詳しくはブログ・2011/2/24をお読みください。)しかしながら、その頃、爺は窮していたに違いありません。爺の井戸は単に「爺独自」の孤立した、およそ伝統とはほど遠い存在なのか?それとも何らかの歴史的繋がりを持つものなのか?それが大きな関心事でした。どちらでも良さそうなものですが、(今に至っても)爺井戸のカイラギグラデーションは釉薬配合の巾が狭いだけでなく独特で、代替えの釉薬調合法が発見できずにいるからです。歴史的に何らかの変化がカイラギ釉を生み出したはずだし、その前進となるべき技術があるはずだと爺井戸釉に半信半疑の期待をもっていたのは確かです。

※作り手の爺にとって「研究」とは実作であり、決して学術的探求を意味するわけではありません。
今までもこれからもそれしかできません。
学術的な事はどうか専門の方々の資料をお読みになってください。
爺の学術的記載には誤りが多いことと思います。ご勘弁のほど。

磁州窯手の梅瓶を前に彼女の説明を聞くうちに、「井戸の技術を手直しすればできるのではないか」と爺には思えました。古作の釉ガラスにまま見る薄いフィルムを張ったごとくの質感は、爺の自惚れをくすぐりました。ただし(断言するにはまだ早過ぎるのですが)井戸技術の「祖」に位置するかもしれないなどとは考えもしませんでした。それにしても本当に出会いは不可思議なものです。めったには起こらないけれど、爺はこうした幸運に支えられています。

大雑把に磁州窯手を語ると、およそ千年前から三百年間、北方中国において、鉄分を含む粗質磁器胎土に白化粧を掛け、その上に透明釉を施釉して焼かれた軟質白磁の一群ということになります。唐白磁の発展型で、唐時代の無地白磁にとどまらず、胎土の鉄分を文様表現に利用した線彫り&白土掻き落とし技法(李朝・三島手にそっくり)を生み出し、磁州窯の代名詞ともなる黒釉掻き落とし表現へと発展していきます。また緑釉、褐色釉を巧みに掛け分けした唐三彩を思わせる作品、そして上記の技法と色釉を掛け合わせたものなど、できうる限りのさまざまな表現を使って宋、元時代を通じて焼かれ続けました。ただし基本はあくまで白化粧を掛けた軟質粗磁器です。950年を創始期として1068年〜1148年の発展期を経て1149年〜1218年の初頭までを繁栄期、その後1300年代末までを衰退期と学問的には四期分けられているそうです。なぜこんな事を記したかというと、爺は最後の衰退期・元時代の陶片を彼女のおかげで持っているからです。そしてその陶片は(後述しますが)驚きの情報を伝えてくれました。

磁州窯の窯は平地に築かれました。単室構造ですが双胴の煙突が特徴的です。今でもかの地の窯は構造的に同じだそうです。窯は傾斜地に築くものと思い込んでいる我々の常識を覆すこの窯は、石炭を燃料に焚かれたそうです。もっとも中国北方では磁州窯より古く石炭は使われていたといいます。(磁州窯の初期は作品の色合いから薪燃料が使われたとの推測もありますが)石炭燃料による酸化炎焼成の結果、釉ガラスが黄色味を帯び、白土部分は薄いクリーム色に見えます。確かに石炭ストーブを知っている爺世代なら誰でも、石炭では薪燃料のような還元焚きは「無理だろう」という実体験があるでしょう。ただ爺を驚かせたのはこの磁州窯の窯構造が唐三彩のそれと同じだったことです。そのことは爺井戸釉薬技術が孤立したものでなく、歴史的に繋がった存在なのではとの期待を抱かせてくれました。

実作者の爺にとって対象に出会って「おもしろそう」とか「これならできそう」と感じるのは、ほとんど直感であり、根拠などありません。調べるうちに、直感を補強してくれる情報に出会えれば前進します。その繰り返しで実感を高めます。前述したように磁州窯手を「やってみようか」と思い立っても、井戸釉薬に関係してくるかどうかは不明でした。そうした期待は薄く持っていたはずですが、それより「エエカッコシ」が表立っただけでした。しかしながら彼女との不思議な出会いによって、井戸釉薬技法の先祖に導かれたらしいのです。

五島美術館の有名な磁州窯手の梅瓶を前にして、「それほど高温で焼かれていない」と感じました。1280℃とかで焼かれる高温焼成独特の器体の緊張もないし、その柔らかな焼き上がりは、1100℃を超えるくらいかと直感しました。そして1100℃くらいで融ける透明釉なら、井戸釉の技術を転用すれば可能と思えました。結局、この直感は半分はずれることになりますが、釉薬の溶融温度は1100℃でことたります。(ただし、もっと高温でも表現できそうなので、本歌もそれであったかどうかは、まだ断言できずにいます。)彼女の研究によると、磁州窯手・黒釉掻き落とし作品は、陶片断面を拡大視した結果、素地土、化粧土、黒釉、釉薬の順に薄いけれどきっちり層をなしているそうです。爺と姉婆は磁州窯の代名詞的存在である、この黒釉掻き落とし技法を目標に定めて、翌日から試作に乗り出しました。

姉婆が絵付けした磁州窯黒釉掻き落とし手の試作品を彼女に送ることができたのは、出会いから5ヶ月ほどたってからでしょうか。その間にも貴重な情報を送っていただき、磁州窯手の基本的仕組みをスピーディーに理解できたのは、ひとえに彼女のおかげでした。資料のひとつには、磁州窯手は1200℃ほどの高温素焼き後に施釉され、素焼きよりも低温で本焼きが行われていたとする学識者達のコンセンサスがあることが記されていました。ひとつには中国語で書かれた磁州窯手の科学分析表もありました。この分析表から現代の材料を使用しての素材作りができましたし、高温素焼きをされていたという研究結果は、磁州窯手がますます井戸釉薬技法の祖である可能性が高くなり、爺はひとりほくそ笑んだものです。そして試作品をお送りしてから彼女から届いた陶片に(前述のごとく)爺はノックアウトされます。(※ただし井戸が高温素焼きをされていたとは思えません。井戸の施釉はやはり生掛けです。テスト焼きをした結果です。)

陶片ほど実作者にとって心躍るものはありません。写真は彼女から送られてきた磁州窯観台窯第四期・元時代の陶片です。磁州窯の衰退期と学者さん達は位置づけているそうです。繁栄期の釉ガラスと比して透明性は低くなり、やや乳濁した釉調です。が、爺にとってはなによりの贈り物。量産多作の低価格品を焼いたこの時期の陶片だからこそ、井戸釉薬の調合の鍵が隠されていそうなのです。しかし爺を驚かせた陶片の情報はそのことではありませんでした。そのことの記述は少し飛ばす予定です。〈2011/4/17〉

当サイトの文章や画像の無断転載をお断りいたします。