井戸茶碗の謎解き 近頃思うこと 野口以織 以織窯

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近頃思うこと

「茶の茶碗でありたいものですが」

「井戸はカイラギのグラデーションで出来ている」と爺は唱えています。古作の井戸の「貫入」と見えるものは、実は「貫入」ではない。高台部の「カイラギ」と等しく小さな「カイラギ」なのだ。爺が考える井戸の最大の特徴はカイラギ化している釉肌にあります。「貫入」と誤解されている特有の小さな「カイラギ」を、一般的に言うところの高台部の「カイラギ」と分けて記すとき難儀をしていました。そこで胴部に表れた小さな「カイラギ」のことを、これからは「カイラギ貫入」と呼んでいきたいと思います。とはいえ、これはこの項の主旨ではありません。また、この項は「謎解き」にもあてはまりません。

爺の井戸は、最近になってようやく「井戸と呼んでも良いのでは」と、自身で納得できた「爺なりの井戸手」です。そこで6年ほど「ただいま制作中」を掲げていた爺サイトをリニューアルしたのです。しかしながら作品として胸を張れるものは「一碗はある」と言い切れるかは微妙な話しです。井戸手とは「こうした表情」を持っている。「こうした仕組み」で出来ている。と、基本をお見せしているだけで、「茶碗」が焼けているかどうかは「微妙」です。今回のお話は、その「一碗はある」と断言出来るか出来ないかの「一碗」を覗いた爺の印象です。

茶道については無知な爺です。茶碗を焼いているのにです。3年前、大恩人に叱られました。恩人は「陶芸家はえてして自作を押しつける」と切り出しました。爺の不遜な態度が目に付いたはずです。高慢な心が無かったと言えばウソになります。茶を知らぬ無知なる陶工の器を茶人が見立ててこそ意義がある。そうした陶工になろうと自惚れていました。茶を知らぬ無知なる陶工以前に爺の心は「傲慢」でした。見透かされていました。「茶を点てなさい」。どなたかに習います、と答えた爺に対して「なぁに、ご自分でお点てになれば良いのです」とお諭しくださいました。「点てていれば分かる」。

茶好きの爺ですから、勝手に抹茶を点てて飲んではいました。ただし自作の器に甘い「茶」でした。恩人の元を去った翌日、自宅近くの臨済宗の和尚様へ茶道入門を願い出ました。一年目は懸命に習いました。二年目は同居の義母の病発症にて長期欠席をしました。義母の死後、覚えたはずのことをほとんど思い出せない爺がいました。この歳では反復稽古中はよろしいのですが、「身に染み込まないものだ」と身に染みました。正直、挫折です。師匠である和尚様も今では名前だけの生徒の存在を許してくださっているようです。爺にとって井戸茶碗を焼くことが茶の修行だとうそぶいています。ただし以前の高慢な爺ではありません。自作に対して(本心では)謙虚です。

そんな昨今の爺の「一碗はある」と言えるか言えない茶碗の話しで恐縮です。近作の大井戸を抱いて妙な感覚が湧きました。本歌の大井戸を掌にして内を覗き込んだ時、ある種の陶酔に浸った憶えがあります。「幸運に酔った」部分が無いとは言えません。しかし覗き込む程に深いあの感覚は忘れがたき実感です。爺作の「一碗はある」か無きかの茶碗ではありますが「茶碗の形以外の何か」が少し伝わってきました。よほどの自画自賛ではないかと、お叱りを賜りそうですが、爺は決して自作が上手いなど自惚れていません。自作が下手であると認識しています。ただし「下手」でなくては「上手」になれないという自負は持っていますが。

ずいぶん前に読んだ本なので名を思い出しません。当時の最先端科学のコーディネーターが著者だったと記憶しています。その中にミクロネシア・ポリネシアあたりに伝わる「マナ」という存在に関する記述がありました。「マナ」とは、例えば「この壺にはマナがある」とか「あの石はマナを宿す」とか使われると記してあったようです。そしてマナを持つものが人工物であった場合、作者の力量や人格には無関係にマナを持つ存在が生まれると認識されているというのです。それなら確率的に生まれてくるのかといえば、そうでもなさそうです。日本語の目を表す「まなこ=眼」の語源であると述べられていたとのあやふやな記憶があります。爺はこの「マナ」意識に惹かれます。陶芸は自然の摂理の人為的再現です。我々のしていることといったら、自然の摂理を能動的に観察しているだけです。その観点に立てば失敗も成功もありません。上手も下手も好きも嫌いもありません。自然が織りなす結果だけです。にもかかわらず、自分に由とするものを選んでしまう。その身勝手さを許してくれそうな「マナ」だからです。

さて爺作の一碗は微細なりともマナを持つことが出来たでしょうか。爺には判りません。ただ「茶の茶碗とは何か」という大命題の片鱗を、爺に気付かせてくれたと思っています。結果、爺が遭遇した古作の大井戸を端的に表せと迫られるなら、迷わず「異界の器」と答えます。異界の存在を知らないのにです。井戸の底を覗き込む程深くなる茶碗から湧き出た妙薬を飲んで蘇生する。それが爺のイメージする古い茶です。井戸の底が続いている先は(見えないから)異界というほかありません。その茶碗の茶碗の形をした部分だけが「茶碗」なのではありません。その茶碗が作り出す、否、有している不可思議な空間を「茶の茶碗」と呼ぶのではないかと勝手な想像をめぐらしている爺です。

そこまで出来れば「井戸手」などということは、どうでも良いことです。人智を尽くしてマナの到来を待ちましょう。(2010/12/21)

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