地蔵堂縁起

宝蓮寺・大日堂縁起目次

地蔵堂縁起

十王像・閻魔・地獄堂


縁起によると正長元年(1428年)一輪和尚のご尽力によって地蔵堂が建立されたとあります。
室町時代のことです。
この正長元年は将軍不在の一年です。翌・正長2年、六代将軍に足利義教が就任します。
義教は天台座主から還俗して将軍になった人物として知られています。
僧侶時代は逸材と将来を期待されていたそうですが、
将軍に就任すると恐怖政治を行い、最期は赤松氏に討たれます。
この事件が引き金となって応仁の乱の大騒動へと発展していきます。
この地蔵堂が建立された時代は混沌と闇が続いていたのです。


今、この堂には「茶湯殿」の額が掲げられています。
死後百日目、お地蔵様、十王様そして死者に対して茶湯を手向けて供養した事からついた名です。
暗い暗い堂内には地蔵様を中心に死者の審判を行う十人の王とその眷属達が恐ろしげに並んでいます。
冥府の入口で生前の行いを裁かれる死者の恐怖を具現化しているかのようなこの堂は、
十王教の教えにもとづいて整備されているそうです。
死後2年間にわたる十回の審判により、その後の行き先が決定される仕組みと言います。
ただし途中で審判が下れば、2年間という制限ははずれます。
十回も恐ろしい裁判にかけられるのでなく、十回もの救いの機会が与えられていると解す方が正しい解釈だそうです。
我々に馴染み深い初七日、四十九日、百貫日、一周忌、三回忌などは、みなこの教えによっています。


平安時代末期の末法思想の影響化、十王思想は広がっていったそうで、
かっては全国に多くのこうした閻魔堂があったと考えられています。
(閻魔様は五番目の審判王の名でで、広く喧伝されたため十王の代名詞となったのでしょう。)
しかし明治初期の廃仏毀釈によってほとんど取り壊されてしまいました。
ここ大日堂の地蔵堂は全国的にも希有な存在で、これほど大きな十王像が一式揃って遺っているのは奇跡です。
とはいえ、朽損甚だしく早急の保存整備が望まれます。(一部の像は最近修復が済みました。)


十王像・閻魔・地獄堂
十王像・閻魔・地獄堂

右は「秦廣王」;初七日において審判する王。まず最初に裁きを下す王です。
左は「五道転輪」;三回忌を審判する王。最後の裁きを下す王の姿です。
地蔵堂にはお地蔵様、十王様の他にも色々役目を担った方々がいらっしゃいます。
(いずれ画像集のページを作る予定です。)


20年前、筆者は今は亡き親友と共にこの堂を訪れました。古美術に造詣の深かった友は、闇に浮かぶ(堂内にはまだ明かりが無かった)十王様を見るなり「室町だね」とつぶやきました。かっては鋭く光を反射したであろう眼は空洞で、彩色が僅かに残ったお姿でしたが、「ガラス眼は室町なんだよ」と説明を続けてくれました。十王様の眼が空洞なのは、ガラス製の眼を盗まれてしまっていたからなのです。ご一緒に座されているお地蔵様と十王像の一部に江戸時代(1700年代はじめ)の年紀のあることから、学術的には一括されて江戸期の作とされているようです。筆者は古ければ良いと言っているわけではありません。ただ、この得たいの知れない不可思議なエネルギーに中世を感じているのです。筆者の歳よりも若くして逝ってしまった友もまた、十王様の審判を受けたのでしょうか。右の画像は奪衣婆(だつえば)の姿です。審判の前に死者を字のごとく裸にする、つまりあらいざらい生前の行いを表出させる役目を担った存在です。この地蔵堂いくたの像の中で俗に言えば人気の高い尊像です。

このページの画像すべて宝蓮寺発行「秘宝 宝蓮寺十王像」より転載いたしました。
かかる画像使用については宝蓮寺様より許諾をうけています。

 ※なにぶん素人の編纂です。一般的に手に入れられる資料をもとにしか記述できません事をお断りしておきます。
新しい情報や画像が入り次第、その項を更新するつもりです。(2010/11/22)

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